凧あげや節分行事に参加する(3歳10ヶ月)
~幼稚園の行事にて~
今日は3歳10か月の頃の話です。
幼稚園年少の冬休みあけの出来事について記録させて下さいネ。
当時息子が通っていた幼稚園は毎月のように楽しい行事が設定された幼稚園でした。
自閉っ子には変化のない毎日が一番安心して落ち着けるとは思います。
「しかし失敗を恐れて何も与えないのもどうかなぁ・・・?」
との思いもあって選んだ幼稚園。
こうした行事の中で何か一つでも息子に合う行事が増えたらいいなと思っていました。
いざ幼稚園生活が始まり色々経験する中で、息子にとって楽しい経験となった行事の一つが”凧あげ”でした。
~想像力がついてきたー他者をまね、他者から学ぶ~
息子の幼稚園は非常にオープンな園で、ほとんどの行事を保護者は参観して良いことになっていました。
ですから私自身も毎月のこうした行事には見学に行っていたんですね。
というわけで凧あげの様子を見に行った時の事。
息子の幼稚園での凧あげはタコ糸を持って自分で走るスタイルでした。
この方法だと自分は前を向いて走り、凧は自分を追いかけてきますよね。
これって意外と子どもには難しい事かも?と思うんです。
何故なら、手にかかる糸の抵抗から背後に凧が揚がっている想像をして走り続ける必要があり、都度振り返って凧が揚がっているのを見ていてはうまく揚がらないのです。
だから見たい気持ちを我慢しながら凧が揚がっていると信じて駆け抜ける必要がある訳です。これってただでさえ幼い子には難しい事でしょうし、見えない部分を想像しにくい自閉っ子には尚更だと思うんです。
でもこの幼稚園での凧あげでは最終的には無事出来る様になっていきました!
最初のうちは揚がる想像が出来なかったのか、何度も振り返ってはうまく揚がらず落したままゴール・・・(^^;)
このままでは凧が壊れてしまうおそれもあり、手を打つことにしました。
そこでお友達が出来ている様子を一緒に確認してみました。
『他児さんの様子を見てうまく出来る様になればいいな・・・。』
すると、私の願いが通じたのか息子も何かを理解した様子でした。
次の順番が来た時には、振り返りたい気持ちを我慢して一気に駆け抜ける事が出来、無事凧が揚がったのでした。
他のお子さんの様子を模倣してみた瞬間でした☆
こうした事を通じて、苦手だった背面や見えない部分を想像で補う能力が少しづつ養われ始めてきているんだと感じた一件でした。
~怖いこわい鬼~
一方、その2週間くらい後に行われた節分の豆まきはただただ恐怖だった様です(笑)
こちらの行事は直接見た訳ではないので、息子からの話を要約すると
「ボク、怖くて鬼にはならなかったの。」
という感想以外は口にしようとしませんでしたので、よっぽど怖かったのでしょう(^^;)
おそらく男性の先生方のどなたかが鬼役で出て来られたと思うのです。
よく見れば
「(あれ?〇〇先生の靴下かも?)」
などいつもの息子なら気付きそうなポイントがきっとあっはずなんですよね。
でも恐怖のあまりそんな事に気が回らなかった様子。
”怖かった”と自分の気持ちを言えただけでも良い経験になったなと思う母でした。
癇癪泣きの事(3歳10か月)
明けましておめでとうございます。
本年もよろしければお付き合いいただけますと幸いです(*^^*)
さて、2019年最初の記事ですが、癇癪泣きについて書きました。
かなり長文になってしまいました(;^ω^)相変わらずでスミマセン・・・
短く書き直したかったのに昔の記事よりも更に長文・・・5000字を超える有様に( ;∀;)
でも折角書いたし、お正月だからこのままUPさせて下さいネ。
前半が癇癪泣きへの具体的な対応方法、後半が育児を見直した経緯などを書いておりますので、よろしければお時間のある時にでもゆっくりお読みいただければと思います。
~癇癪泣きへの対応~
さて、以前に書きました↓「甘やかしと甘えさせるの違いとは?その1」
let-me-pick-you-up.hatenablog.com
の脚注で触れた癇癪泣きの件を今日はUPさせていただきます。
よく”癇癪泣き”と言いますが、「そういえば癇癪とはどんなもの?」と考えたことから始まった考察です。
息子が小さいうちは随分と悩まされました”癇癪泣き”を3歳10か月の頃にじっくり考えてみました。
良かったらご覧ください。
***********
まずはgoo辞書さんで『癇癪』の定義を調べてみました。
*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*
かん‐しゃく【×癇×癪】
ちょっとしたことにも感情を抑えきれないで激しく怒り出すこと。また、そういう性質や、その怒り。「―を起こす」「―が強い」
*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*--*
息子が3歳10か月のある朝、正しくこの辞書の通り既に感情を抑えきれないで激しく怒って起きてきました。
「ママどこよ!」から始まり、私が米研ぎしていたのを見つけると
「ボクやりたかったよ!!」(お米の計量は当時手先の訓練として息子の日課になっていました)
「(昨夜遊んだまま放置してあったミニカーを見て)ボクお片付出来ないよ!!!」
等です。
定義通り、ちょっとしたことで激しく怒り泣きしていました。
でもどうして彼は朝からこんなに怒り狂っていたのでしょう?
色々探ってみると・・・
結局とてもお腹が減っていた状態が根底にあり、朝からちょっとした事でとても不機嫌だった様です。
※後で「すごくお腹が減ってたの」と言っていました。
本人は、内部要求の掴み取り*1が苦手なので、朝大泣きした根本原因が空腹であるとは自分自身でわからないのです。
ですので、こうした体からの要求は大人が見極めてコントロールしないとまだまだ難しい頃でした。
~で、肝心の癇癪泣きへの対応は?~
①冷静に状態を見極める事。
②対応者は声を荒げたり、暴力を振るわない事。
③出来れば誰か大人が一人横について、話を聞いたりなだめる事。
今までに実施した中では結局この対応に近い程早く治まった気がします。
①見極めは、時刻や体力から判断して
- 遊びすぎなら=喉の渇きや疲れが考えられる→お茶等で休憩
- 朝起きてすぐなら
(1)目覚めて誰もいなくて寂しかった→抱っこしてみる
(2)トイレへの要求の可能性→トイレを促す
(3)空腹→すぐに食べられるものを用意してみる
- 昼ごろの癇癪泣き=空腹やトイレ、暑さ寒さを疑う
- 昼寝後の夕方泣き=ひょっとしたら遊び足りない感(あまり遊んでいないのに夕方になってしまった)かも?→今から遊ぼうと誘ってみる
等など、こんな予想を立てて行動しています。※今読み返すと当たり前の事ばかりですね(^^;)
②の暴力なんて殆どの方はされないと思います(私ももちろんしません)が、『声を荒げない』これが結構私には難しいです(T_T)
この日も朝という事もあり、朝食の準備、お弁当、アイロンがけなど家事に追われている時に膝を付き合わせる事が難しいという焦りが・・・そんな気持ちから、声で何とか治まらないか?と荒げてしまうのです。
が・・・結果的には少し時間を割いてなだめる方が早く落ち着く事も多いので、今後はもう少し子どもの気持ちに寄り添いたいという反省の意味も込めて今日この記事を書き記しておきます。
③誰か一人が横につく。
この日の朝は夫がやってくれました。
誰か傍にいて、出来れば目線の合い易い高さに腰を落としておくと子どもは何をすれば良いか我に返りやすい様な所が多く見られてきました。
難しい事を考えずに、ただ寄り添うだけでも(→本当は時間に追われているとこれが一番難しい事なのですが(T_T))早く癇癪泣きから回復する気がします。
その際に一定のリズムで「ぎゅっぎゅっぎゅっ」と抱きしめるのも結構効果がありました。こうした刺激を圧迫刺激と言うそうです。しかしこれは本人が不快でない感覚だから有効なのでしょう。例えばふわふわのタオルケットや毛布でくるんであげるても同じ様な効果だと思います。
そういえば過去に感覚過敏・鈍麻への試み 皮膚 前編(2歳4ヶ月~)の中でふわふわ毛布でくるんだ事があったのですが、この時の刺激もおそらく同じだったのでしょう。ホッと出来る効果がある様に思います。
※ですから逆にゴワゴワタオルの方が好きなお子さんの場合は麻などの素材のものを探してみるなど、お子さんの好みを見て対応してみると良い様に思います。
~パニックは落ち着くまで放置した方がいいのでは?~
この様な癇癪泣きが一般的によく言われるパニックかどうか・・・正直よそのお子さんとじっくり比べた事がないので何とも言えないのですが、1歳3ヶ月以降はこの様な激しく泣く状態が頻繁にありました。
1歳代はどうすることも出来ず、一緒に泣いたり途方にくれるばかりでした。
落ち着くまで放置した方が良いという話もききましたのでただそっと見守る時期もありましたが、ご近所の方に虐待を疑われる程の泣きっぷりでしたので見守るのも辛く色々試してみた結果です。
やっぱり泣くには原因があるのだと思います。
その原因は人それぞれ・・・もしかしたらお子さんによっては何かのこだわりを崩されたり(例えば電気をつける順番がいつもとは違ったとか、着替えの手順が違うといったもの)思い通りにならないはがゆさ故の怒りだったりするのかもしれません。
でも本当は、その怒りの奥底にはもっと生命維持に関わる根源の様な原始的な要求に気付けないで困っている事があって、それらがわかりやすく表面化した別の怒りや事象を通じて発せられたりする事もあるのかな?と思っています。
だからこの事に何となく気付いてからは、私も子どもに声を荒げたり、追い込んだりする事はあまりなくなってきました。怒りの根底にあるのは”空腹、眠気、疲れ、寒さ、喉の渇き等”なんじゃないかと真っ先に考えてみる様にしてみたからです。
子どもの感情が昂っているいる時ほど『何かお困りですか?』程度の気持ちで接する様に心がけ、少しの言葉やヒントから状態を見極めようと思っています。
~私自身が母親からしつけられた事~
とは言っても、人間ですから大人とはいえ感情を完全に抑える事なんて出来ません。
時には逆切れしてしまう事もあります。
そういった諸事情を勘案したとしても、私には激しく怒鳴ってばかりの時期がありました。
まだそうした対応をしていた頃は子どもが癇癪泣きをする度に逆ギレし、更に子どもの癇癪泣きを悪化させるだけの日々。*2
”こんな毎日ではこの家は破綻してしまう・・・
子どもの変化(つまり成長)を待つよりも自分が変わる方がこの状況を早く変えられるんじゃないか・・・”
日々の生活が出来ない程家庭内が崩壊しつつあった当時・・・このままでは最悪の事態に至る事を感じていました。
それならば今自分ができる最大限の事をやってみよう、とこれまで自分が子どもに対して常識だと思っていた事などを全て捨ててみたのでした。
つまり
- 最初から一貫したしつけが必要でその為にはダメな事はいくら幼くても最初から厳しくダメと言い続けるべきだ
- 子どもに軽んじられてはいけない。子どもは大人が制御すべき対象である
こうした事を思って息子に対峙していたんですね、いつも。
だけど息子が荒れ狂う程にどんどん自問自答する日々に陥りました。
”常識って何だろう・・・ダメの本当の理由って何だろう・・・大人に都合が悪い事を全てまとめてダメって言ってないかしら・・・?”
その結果、今伝えなくても良い事は伝えない覚悟を決めたんです。
いつか伝えるべき日が来るまで忘れずに心に留めておいて、それまでは必要な順序を追って伝えていこう、と。
そうして子どもへの対応を見直していった結果、息子の状態がぐんぐん好転していったのでした。
少し落ち着いた後に、ふと・・・当時の自分を振り返る事がありました。
”私、どうして子どもが激しく泣いている時に同情出来なかったのかしら?他のお母さんは「辛かったねー、痛かったねー」と子どもを抱きしめる事が出来るのに、どうして私は叱責する事しか出来ないのかしら?”と。
理由は一つしかありませんでした。
私も自分の母親にそうされてきたからでした。
「泣くな、バカモノ!」
「泣いていても意味がない、いい加減に泣き止め!」
等と罵倒されてきた自分の幼児期を思い出しました。
今ならわかりますが弟が生まれ手がかかるのに、誰も育児を助けてくれる人が身近いなくて大変だったのでしょう。
母親は私に対してよく怒鳴っていた記憶があります。
その頃は何も思っていませんでした、私が悪い事をしたから怒られたんだなと。
女の子ってね、制御しやすいんですよ。
男の子に比べて力も弱いし、いくら怖い親でも親は絶対的な人だから強く抵抗するも出来ないって心のどこかで思ってて。
だから母もこんな間違った力技で私を育ててしまったのでしょう。
そのツケが巡り巡って私から息子に対する育児の中で露になったのです。
こうした対応を受けた私は、いつの間にか自分の中で
『泣く事』=『悪い事』となっていた様です。
幼児期以降あまり泣いた記憶がなく、悲しい、辛い事がきっとあったハズなのに何も心に響いていなかった気がします。
何も辛くない、何も悲しくない、何も感じない、そんなタイプの人間でした。
但し対外的には装う事は出来たのです。
学習によって、”こんな時はこんな感情”と学んできたからです。
だから善悪や辛い・悲しいといった涙に繋がるような感情は自分で感じたものではなく、対応する感情をただ刷り込まれて大きくなったと思います。
自分の心に感じた感情ではないので、泣けるはずがないのです。
これに対して、関西という土壌もあるかもしれませんが、笑いに繋がる感情だけは抑制されずに済みました。母も私が機嫌よく笑っている分には何も口出ししませんでした。
この点があっただけでもいくらかマシだったのかもしれません。
***********
確かに子どもの癇癪泣きは、本人も辛いかもしれないですが、聞いている周囲の人間も辛い事です。
でもこの様に感情まで『封印』してしまっては、本当の問題から目を背ける様な気もします。
プレで出会った先生方が一生懸命息子の癇癪泣きに付き合って下さる姿をみて、本来私があるべき姿を・・・やっと理解した瞬間でした。
こうした事を経験した結果、息子には自己コントロール力を高めていける為に(=つまり泣きたいのは何故か?と自分の心の中にある深い内部要求に気付き、泣くのでは無く解決していく方法を自分で見つけていく)自分自身の感情に気付いていける様に促していけたらいいなというのが当面の目標です。*3
【追記】
私のブログでは実母は完全に毒親・・・ですよね(笑)
一応母の名誉の為に追記させて頂きます(^^;)
母は私が幼稚園へ通う様になった頃から体に異変を感じ始め、
”あまり長く生きられないなら何とか生きている間に子ども達に自立する力をつけさせなければ”
という思いで必死に育てたと生前語っておりました。
おそらくそういった関係で必要以上の厳しさを持って接したのだと思います。
結局母は弟が成人して間もなく、彼女自身が感じていた通りこの世を去る事となりました。
私は幸運にも今のところ一応大丈夫そうなので今は母を見習わない事にしたいと思います。
*1:過去記事ぼく、できたよ!(有能感と共感性の関係)前編(生後3歳10か月)で少し述べておりますので良かったらご覧下さい。
*2:ちょうど息子が1歳半~2歳2ヶ月、幼児プレ教室に入ってすぐの頃)です。
*3:成果のご報告(?)ですが、7歳後半くらいから「ボクがこれだけしゃべるのは眠いからってバレてる?(笑)」といった風に自分の状態に少しづつ気付ける様になってきている様に思います。
ぼく、できたよ!(有能感と共感性の関係)後編(生後3歳10か月)
~共感を求める瞬間はすぐそこに~
実はこの有能感って、何も絵画や工作といった場面だけでなく、むしろ何気ない日常に沢山その瞬間がありますね。
私はその瞬間の子どもの目が大好きです!
「ママ、ぼくできたよ!このまえまでできなかったのにできたよ!」
目をキラキラさせて、いつもはそらす目を子どもの方から合わせてきます。
きっとこの出来た瞬間を私に共感して欲しいと感じているんだろうなぁと感じる度に、随分心が成長してきたなと思う様になりました。
息子はずっと目を怖がって見てくれない時期がありましたが、こうした事に気付いてからは目を出来るだけ合わせる様に意識しています。
特に息子の方から合わせてきた時は絶対にのがさない様にしています(笑)
**********
例えばですね、我が家でそうした有能感を高めてくれた一つに"靴"のエピソードがあります。
手足のぎこちなさが少しでもスムーズになればと、ウチでは日ごろ休みの日になればアスレチックのある公園へ良く行きます。
近場の公園で遊ぶことが多かった頃はお気に入りのキャラクターがデザインされた靴を履いていたのですが、足のサイズが上がった事やキャラものにそこまで執着しなくなってきた様子だった事から、思い切って機能性のある運動靴を買った事がありました。
ちょうど3歳後半の頃です。
さっそくその靴を履いて、公園へ行ってみました。
それまではこんな遊具は怖くて仕方がなかったのですが、この時は写真の通り随分高い所へ登りました。どうも靴底のグリップ力が今までの靴と全然違ったらしく、自分が考えた通りの動きが出来た様なんですね。
こうしてのぼれた事が本当に嬉しかったらしく、この時は何度も何度も・・・何度も登っていました。
こちらの公園はこれまでにも何度か来た事がありましたので、はじめのうちは以前に出来なかった記憶を思い出し、怖さや不安でなかなか足を踏み出そうとしませんでした。
それでも
「新しい靴だからきっと大丈夫、ちょっとやってみない?」
と促すと、
「僕できたよ!」
「できた!」
と、自分の手足の動きを確かめながらしっかり進んでいきました。
こうした成功体験の中でも、特に一番最初に出来た瞬間ほど息子の方から目を合わせてくる事が多い様に思います。
「ぼく、できたよ!」
有能感が高まる瞬間は共感力も一緒に育みやすいシーンの一つかもしれない、と感じますので、良かったらお子さんが一番最初に「出来た!」と感じているだろうなぁと思う瞬間、意識的にお子さんの目を見てみて下さい。きっとお母さんに向けてチラッと目を合わせようとしてくる瞬間があるかもしれませんので、その時は是非アイコンタクトで受け返してみてくださいネ♪
~ちょっとしたチャレンジがいいみたい~
有能感は、子どもが得意な事よりも、少しチャレンジ性のあるものの方が高まりやすいのかもしれません。
そうですね、例えばいつもはちょっと怖がって出来ない様な事や、いつもの公園だと出来ないと諦めている様な事です。
親の目には
”あとちょっとで出来そうなんだけどなぁ・・・”
と感じている類の事ってありませんか?
こうした事ってついつい無理強いしそうになるのですが、子ども側には何かのきっかけが無い限りなかなか踏み出せない心のブレーキが働いている、そんな何かがあればチャンスです。
そう、ピンチはチャンス。
でも無理強いしないで、環境を整えたりお子さんの準備を整えたり、まずはチャンスをつかむ準備を♪焦らなくても大丈夫です。
全てが整ったら、チャンスはまた必ず訪れます。
**********
余談なのですが、この遊具がうまく出来た後、なんだか子どもが少し逞しくなった様な何か誇らしげな気持ちになれている様に見えた気がしました。
この頃はまだまだポーカーフェイスな子だったので、こうした経験も色々な表情の表出につながったのかもしれませんね。
こういった経験から『一度失敗しても諦めない事』ですとか、『前に出来なかった事でも、時間が経てば状況も状態も変わる事』等を理解していってくれればいいな、と思った一件でした。
その他にも有能感を高めてくれた事として"ハサミの練習"や"プラモデルの組み立て"、"制服を自分で着る事"等への挑戦がありますが、それはまた別の機会にお話しさせていただく・・・かもしれません。
ぼく、できたよ!(有能感と共感性の関係)前編(生後3歳10か月)
この有能感や共感性に関する話ですが、こちらのブログに引っ越す前に書いた記事の中でも特になるべく早く書き残しておきたかった記事です。
私個人的にも息子やこうした特性について深い気付きに繋がったと思う一件ですので、良かったらお付き合い下さい。
この記事の概略なのですが、そうですね・・・例えば、
「おなかへった」
とか
「喉渇いちゃった」
って、みなさんにとってはきっと自然に感じられる事ですよね。ところが息子にはそうした感覚が掴み取りにくい特性が生まれつきある様です。
自分の体の中のステータス変化って視覚化されたものではないので、息子にとっては目には見えなくてわかりにくいのかもしれません。(ゲームの様にHPだとか体力っていうゲージが見えればいいんですけれど、なかなか現実世界では難しいかも^^; )
今日はそんな体内の変化について考察するきっかけとなった時の話です。
~地元の絵画展~
息子が幼稚園の年少の冬です。
幼稚園からあるお便りをいただいてきました。
地元のデパートで行われる絵画展の案内でした。
毎年行われているこの絵画展。
市内の幼稚園から選ばれた園児さん達の絵画を展示する企画なのですが、その展示会場内でお母さん達に向けた子ども達の絵画に関する講座なども併せて催されていたんですね。
「興味のある講座を聞いて勉強したいし、お子さん達の絵から元気をもらえるかもしれないから行ってみよう!」
と、気軽な気持ちで行ってみる事にしました。
ちなみに・・・
ウチの子は
①「表現(=他人に何かを伝える)する事がまだ難しい」
②「手先の不器用さ」
この2点から、図画工作は当時は苦手分野でしたので、当然ですがこの会場には・・・ウチの子の絵は展示されていませんでした(笑)
それでもふと行ってみたくなったのです。
『そういえば何かを表現するって、どういう事なんだろう。』
と改めて考えてみたくなったからでした。
***********
会場でお子さん達の絵画を見て感じたのは、やはり思っていた通り”心の中に浮かんだ描きたい何か”を上手に掴み取れるお子さんの絵は技術云々でなく惹きつけられるものがありました。
私はこうした事を”内部要求の掴み取り”と勝手に呼ばせていただいておりますが、
わかりにくい絵で申し訳ないのですが、例として日ごろ息子が苦手にしている"おなかが減った"状態を自分で気付くまでの変化を表してみました。*1
①で空腹になり、脳へ通知される
②脳が情報を受け取る(=気付く)
③言葉や行動で状態を他人に伝える
つまり、③の「おなかがへった!」と言葉にする為には、これらが全てうまく機能して初めて言葉になる様な気がするのです。
なのに息子の場合は①の脳への通知か②の脳での受け取りのどちらかに弱さがあって、なかなか言葉にならないのかなぁ?と思っています。*2
***********
こんな考えを思い巡らせていたその時ふと・・・こうした事って、一事が万事なんじゃないかなぁ?とも思えたんですね。空腹だけでなく、いろんな内部要求に気付きにくい事が言葉の遅れの原因かな・・・と。
もちろんこれらはお医者様の見解でなく、親として日々息子を見ていてそう感じる事であって、多くの方にも通じる事かどうかはわからない、と前置きさせていただきますね。
その上で、怒り、楽しい、辛い、熱い(温かい)、暑い、寒い、痛いなどの比較的強く激しく急激に立ち起こる感情や目に見えてわかりやすい(例えば水がはねてズボンが濡れた=気持ち悪い)事象などは比較的理解が早かったのかも?と考えたのです。
その一方で、体内の中で緩やかに湧き起る空腹や睡眠などの要求についてはじわじわとした変化ですし、目に見えないので難しいのかなぁ・・・と思い至りました。
ですから息子の様なタイプにこうした感知能力を育ててやりたいと思うなら、想像をはたらかせて理解を促す何かしらの手助け(=写真や絵本で似たような事例の説明)が必要な部類なのかもしれません。ちょうど写真を示して共感性を育んだ↓過去記事の頃の様に。
let-me-pick-you-up.hatenablog.com
(絵カードを活用したコミュニケーション方法などは、こうしたタイプの子にとっては思いや感情に一致した言葉を想起するのにとても適した方法の1つかもしれませんね。)
前置きが長くなりましたが、こんな息子でしたから心に浮かんだ何かを絵に表現する事は当時の息子にはまだ難しいのかな?と当時私なりに受け止めていました。
~有能感と自己肯定感~
ところで自己肯定感を高めていく事は子どもにとって常に大事な事ですよね。
”出来ない!”の連続では
「僕はダメな子だ・・・。」
と落ち込むばかり。
普段から息子自身が自分を認めてあげられる何かを探していた当時。
この展覧会の特設ステージで行われた講座というのが、ちょうどそんな私の思いとぴったり合致し、その後の息子との関わり合い方を見つめなおすきっかけを与えてくれたのでした。
それは大橋功先生の「絵を通して知る子どもの真実」という素敵なミニ講座でした。
この時拝聴した内容を簡単にまとめますと、
~子どもにとって有能感*3はとても大事な事である。 つまり、『「ぼく出来たよ!」「私がんばったら出来たの!」と自分を誇らしく思い、自信を持つ感覚を大事にしなさい』~
こんな事をおっしゃられていました。
そしてそれは、当時はまだ中々うまく言葉にまとめられてはいませんでしたが、私自身が常々感じていた事でした。
(ごめんなさい、長くなりそうなので後編に続きます。)
*1:後で気付いたのですが・・・このイラストは既に療育を決めた時―感覚統合(2歳5ヶ月)という記事でご紹介していましたネ(T_T)情報が重なってしまい申し訳ないです。
*2:息子は4歳目前になってようやく「おなかが減った」状態がどんなものか気付く事が出来始めましたが、しかしやっぱり三つ子の魂百までじゃないですが、幼い頃に苦手な事って長じても色々な外部からの刺激によって感受出来る能力に波がある様子です。それにもっと大きくなった就学前頃には、感知した感情に一致する言葉を脳内に探し当てるリンケージ機能にも弱さがあるのでは・・・?と薄々感じる様になりました。言葉を紡ぎだすって、ホントに大変難しい我々人類ならでは特別な脳機能なんですネ。
*3:有能感って、自分の働きかけや行為によって自分をとりまく世界や環境に影響を与えられるという事を実感していく事なのだそうです。(何分もう随分前の事なので聞き洩らしていたらすみません。)
甘やかしと甘えさせるの違いとは? その4(2歳代~現在まで)
長くなりましたが『甘やかしと甘えさせるの違いとは?』シリーズ最後の記事です。
~甘やかし?甘えさせる?~
一体何が”甘やかし”でどこからが”甘えさせる”なのか?
ここまで散々色んなことを言っておきながら、それでもまだどこかで
『甘やかしはやっぱりイヤかな・・・』
なんて思う気持ちがまだ残っていた頃もありました。
じゃあ、甘やかし/甘えさせるを整理して線引きをしてみれば
自分の中で折り合いをつけられるんじゃないかなと考えました。
*********
結果「甘えさせる」については、
既に出来る事をたまには
「いつも頑張っているから今日はちょっと一休みしてもいいのよ。」
といつもの頑張りを認めつつ、今は頑張らなくてもいいよと受け止める事を「甘えさせる」と我が家では考えてみる事にしました。
例えば当時出来る様になったばかりの、洗髪や体洗い。
一応息子だけでも出来る様にはなっていたんですけど、まだまだ本人は四苦八苦な様子でした。*1
この様に『傍で見ていると確かにしんどそう・・・なんだけどよく毎日努力しているなぁ』と感じる事については自立心で一杯の時は自主性にまかせて、しんどそうな時はたまに甘えさせています。
*********
じゃあ「甘やかし」は?
う~ん、正直線引きが大変難しいです。
が、何かの能力が芽生えてきた事を感じながらも伸ばすように促さなかったり、出来る様になった事でも
「一度は出来る様になったのだからもう(努力を続けなくても)いいんじゃない?」
と本人の不断の努力への気持ちを薄らげてしまう様な事なのかな?と思います。
特に毎日の習慣や体の中心を支える筋肉については、一度出来たとしてもそれで終わりとはいかない様です(息子は筋肉の付きにくいタイプなのかなと思います)。
辛いですが少しづつでも続けていくしかない様です。
確かに苦手な能力を伸ばす事はとても疲れるし体力がいる事なので、尻込みして甘えたい気持ちはわかります。
誰だってダラダラしたくなりますよね。
そんな気持ちを受け止めつつも、少しづつでいいから土台を固めて羽ばたく練習を日々親子で積み重ねています。
しかしそれもあくまでも楽しみながら、という気持ちは忘れずに。
~新・魔法の靴~
いきなり話がガラリと変わりますが、ここからは靴の話です(^^;)
というのもこの記事を最初に書いた当時、ちょうど朝の子ども向け番組の今月の歌が靴を題材としたものだったので。あれからもう数年経っちゃいましたが、いい記念なのでこのまま載せさせて下さいね。
この記事の後に、子どもの有能感について考える記事を予定しているのですが、その中で、息子に「ボクにも出来る!」という有能感を育み、子どもの自立心を大きく促してくれる役割を果たした魔法の靴をご紹介する予定です。
当時の息子にとっては、遊びや運動とはまだ苦手意識がどこかにあり、息子にとって辛い事も多かったものでした。
ですがこの魔法の靴たちはただただ楽しいものに変えてくれた立役者。
特に初代魔法の靴に関しては、息子がとても気に入ったのでボロボロになるまで履き続けました。
靴にもそんな気持ちが通じたのでしょうか?
息子を色々な遊具に誘っては
”大丈夫、ボクは魔法の靴だから!”
とでも語りかける様に息子に遊ぶ勇気を持たせてくれました。
*********
座る姿勢を保持する為や、手と目の協調運動をスムーズにしていく為にも正しい姿勢を保持できる様に。
延いてはこの子の人生の生活の質を保てる様な体作りを・・・と考え始めていた当時。
私が息子に求めた事はまだ少々厳しかった様に思います。
特に子どもですから、いくら体に良い事でも辛い事や厳しい事ばかりでは長続きしない事は明白でした。
だから北風と太陽方式を(笑)
楽しく遊んでいるうちに体幹や筋肉をつけてやれたらいいな~って誰しも思いますよね。
靴裏のグリップ力や足首を捻らない様にしっかりと保持してくれる靴を選びました。
もちろん見た目も息子が気に入るものを。
あの当時たくさん遊んだ事で、今の息子の体の基礎が出来たと信じています。
*1:結局小学生になった頃にはお風呂関係は自立していましたし、その頃には逆に親がやってあげようとすると「自分でやるもん。」と恥ずかしがる様子もみられる様になっていました。